「一隅を照らす」~医療を通じて地域に貢献~
社会医療法人大雄会 理事長 伊藤 伸一(昭和50年卒)
一般社団法人愛知県病院協会 会長
大雄会
https://www.daiyukai.or.jp/
愛知県病院協会
https://www.byouin-k.jp/aichi/
滝学園時代、どんな生徒でしたか。
部活は何をされていましたか・・・・・。
滝学園時代を思い出すと、やんちゃな6年間だったなと。小学生の時は、坊ちゃん坊ちゃんと甘やかされ、どちらかというと、いじめられっ子でした。それが、滝中学校に入った途端、世の中のおもしろさに目覚めてしまった。まずは、深夜のラジオ放送。深夜放送黄金時代を築いた名パーソナリティ・リコタン、レオ、アマチン(※1)といったDJの話に夢中になり、深夜3時からの「走れ!歌謡曲」まで毎日聞いていました。当然、授業中はずっと居眠り。溝口先生にはしょっちゅう耳を引っ張られて、トイレに連れてかれ、厳しい指導が……。そのあとに、「伊藤!もっとしっかりやれよ」のひとこと。こういう世界があるんだなと、カルチャーショックを受けたのを覚えています。そのあとはお互いにケロッとして普通にふるまう。生徒と先生の距離が近いからこそ成り立つ関係性であったと思います。ただ、そんな状況は、公立の中学校ではとても考えられない。カルチャーショックを受けたこの環境が、私を逞しくしてくれたと思っています。
滝高校時代も当時校長だった丹羽先生に何かと校長室に呼ばれ、「伊藤!まじめにやれよ」と、良い風に言えば、目をかけてくれていたのでは。ただ、高校1年の誕生日を迎えてすぐに原付の免許を取り、その後自動二輪免許を取って、たまにバイクで学校に通っていたような生徒だったので、目をかけられていたのではなく、目をつけられていたという方が正しいでしょう。バイクというと不良のバイブルのように見られていましたが、さっそうと走ること自体が好きだったのです。やんちゃっぷりは増しましたが、つるんで暴走行為をするようなことは一切しませんでした。
部活は、中学時途中で辞めていた剣道部に高校で再入部。臭い胴衣に身をつつんで稽古していました。この匂いが体の芯まで染みついてしまうんじゃないかと真剣に心配していました。中学生の時、ハム(アマチュア無線)の免許を取得したことで物理部にも入っていました。学校の行事での一番の思い出は修学旅行ですね。意外と思われるかもしれませんが、一人でいることが多かった自分が、みんなでワイワイ騒ぐことがこんなに楽しいんだと知った出来事でした。心底楽しかったからこそ、ずーっと心に残っているのでしょう。
伊藤伸一さんの学生時代といえば、伊藤放射線病院から総合大雄会病院になった頃。
何時、医師として事業承継をしようと決意されましたか。
また、医師として何を専攻するか、どのように検討されましたか。
小さい頃から病院を継ぐものと言われ続けていましたから、大学は医学部一択。愛知医科大学に進みました。大学6年生になって、医師として麻酔科の道へと考え、父親に相談しました。父親と話していると、放射線科に進んでほしい、という気持ちがすごく伝わってきたのです。岩田医院、岩田レントゲン科で始まった病院だけに、その思いが強かったのでしょう。それもあって放射線科に進みました。これが後々考えると大正解な選択でした。放射線科が劇的に変わる時期に立ち会えたからです。
当時CT(※2)ができたばかり。脳出血を調べるにも、それまでは背中に針を刺して、せき髄液を抜き、その液がピンク色だったら脳出血という診断だったのが、寝ている患者を、機械(CT)がガチャンガチャンとまわって撮影することで、脳出血しているところが一目でわかる。CTにより放射線科が革命的に飛躍・向上したのです。その真っただ中に飛び込めたことが本当にラッキーでした。
放射線科は写真を撮って診断することが主でしたが、そこに加え、がんを含めたIVR(血管内治療)が始まった時期でもありました。血管の中にカテーテルを入れ、管を入れ、そのまま治療につなげる。画期的であり、この手技は腹腔内の出血治療にも大きな進歩をもたらしました。骨盤骨折をすると、内部で大出血をおこすため、手術は困難を極めます。それが、足の付け根から管を入れ、血管の出血しているところに塞栓物質を送り込む。すると出血が止まり、その後に手術をする。放射線科のありようが変わり、医療自体が革命的に変わっていきました。愛知医科大卒業後、この治療的な放射線手技を積極的に進めていた奈良県立医科大学に進みました。医局に入り、一年の臨床のあと大学院に。そこで博士号をとってから、大雄会にきました。
大雄会に入られてからは、どんな仕事をされていますか。
1990年(平成2年)放射線の医師として仕事をしていたある時、理事長である父親から「副理事長になって理事長業務全部をやってくれ」と。父親に病気が見つかったからです。やれって言うならやりましょうと、簡単に引き受けたはいいが、経営のことはさっぱり分からないし、理事長からはひとことも助言などもらえない。初代院長が掲げた「医療を通じて地域に貢献したい」の想いを受け継ぎ、無我夢中に進めました。地域の人々の健康を支えるためにも、最新医療機器はすぐにでも導入するという考えも踏襲しました。なにせ、1929年(昭和4年)に国産第1号島津のレントゲン「比叡(ひえい)号」を、一宮の小さな医院が導入したぐらいですから。当時国内でほとんど普及していなかったレントゲン装置を使って、結核の診断に大きく役立たせてもいました。この進取の精神を代々受け継ぎ、1985年(昭和60年)超電導MRI(※3)も日本で6番目に導入しました。東京大学病院よりも早かった。このMRIも医療界に画期的変革・進歩をもたらしました。
多発性硬化症、変性疾患をそれまでは症状でしか判断できなかった。それがMRIで患者が15分寝転んでいるだけで、病原が白く映る。「医学の進歩は人類にとって福音である」という言葉がまったくぴったりする世紀の大発明でした。そのMRIを導入するにあたっては、アメリカ、ドイツ、イスラエルなど世界各国の最先端の病院を見て回りました。研修も3か月、アメリカでしました。最新機器を導入したからには、それを当病院の医療で100%活用したいからです。がんが早期に発見できるPET(※4)も早い時点で入れました。このように最新機器を入れるのが私の使命の一つだと考えていて、それを先駆的にやってきました。
今後、地域と医療を「つなぐ」大雄会として、どのような社会活動を取り組まれますか。
大雄会は来年9月に100周年を迎えます。それまで支えてくれた人たちに感謝の気持ちを伝えようと考えています。基本理念などは変えるつもりはないのですが、ここ数年、何か変わらなければという思いがずっとありました。それがコロナによって、このままでは絶対つぶれてしまうという危機感を抱き、「シン大雄会創生プロジェクト」を立ち上げました。新しい建物を建て、新しい機器を入れるのはもちろん、新しい全く違う体制づくりを目指します。先日もプロジェクトに参加する医師、看護師、職員ら40人で合宿をし、基本構想についてディスカッションしました。みんなで変えよう、みんなで変わっていこうという意識を高めなければなりません。
座右の銘は。
「一隅を照らす」(※5)「一隅を照らす、これすなわち国宝なり。」天台宗の比叡山延暦寺を開いた最澄(伝教大師)の言葉です。
「お金や財宝が国の宝ではなく、家庭や職場など自分自身がおかれたその場所で精いっぱい努力し明るく光り輝くことができる人こそ、何物にも代えがたい尊い国の宝である」
医者が病院で医療行為がきっちりできるのは、表に出ない人々の協力があってこそ。病院内外を清潔に保ってくれる、栄養を考えて患者さんの料理を作ってくれる、そういう人たちがきっちり自分の仕事に取り組んでいるからこそ、医者は医療に打ち込める。片隅にあって、誰も注目しないような仕事を精いっぱいの努力で取り組んでいる人たちのことを尊敬してほしいのです。
もうひとつ「世の中に雑用はない」。ノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子(※6)さんの言葉です。
「この世に雑用という用はありません。仕事を雑にしたときに雑用が生まれます。有意義な仕事にするか雑用にするかは、あなたの心の持ち方次第です」と、仕事の価値は心構えで変わるのです。
雑用と思う仕事があっても、実際にしなければ、全体業務が成り立たなくなるし、その仕事をするおかげで誰かが助かっている、誰かが幸せになっている。そのことに気づいてほしい。「一隅を照らす」にも繋がるのですが、小さなことをおろそかにしてはいけないし、それをきっちりやる人たちを尊敬してほしいのです。
滝学園の在校生、卒業生(二十歳代の若手)に対し、今後の進路を決めていくうえ、さらには、生きてゆくうえでの助言がありましたら。
まったく無駄でしかなかったと思うようなことがあったからこそ、私の今があると思っています。無茶苦茶なことをやって、先生から散々怒られ、怒られてもケロッとしている。あの滝学園ですごした6年間が今の私の土台となっているのです。あっという間に過ぎてしまうこの中・高生の時間を無駄なことばかりだったな、とあとから思いがちですが、それはすべて無駄ではないという認識を、在校生のみなさんには今のこの時点で持ってほしい。そういう意識をもって、いろんなことに挑戦してほしい。まずは、何か行動に移す。何でもいい。ちっぽけなことでも。ちょっとした好奇心がきっかけでいい。自ら動いてほしい。それをするには、滝学園というところは素晴しい環境なのです。
自我を確立した一番最初のところを滝学園に鍛えてもらったと思っています。それは先生たちと本音でぶつかりあえる環境が滝学園にあったからです。滝学園に感謝です。
jojo
※1 リコタン(岡本典子)、レオ(森本レオ)、アマチン(天野鎮雄)
※2 CT: CTとは、Computed Tomography(コンピュータ断層撮影)の略です。人体の輪切り画像をコンピュータによって再構成する装置です。
※3 MRI: MRIとは、Magnetic Resonance Imaging(磁気共鳴画像)の略称です。非常に強い磁石と電磁波を利用し、人体を任意の断面(縦・横・斜め)で画像表示することができる検査です。X線を使わず磁石を用いて検査を行うため、放射線被ばくの心配がありません。
※4 PET: PETとは、Positron Emission Tomography(陽電子放出断層撮影)の略です。ポジトロン断層撮影装置。従来のCTやMRIなどの体の構造をみる検査とは異なり、細胞の活動状況を画像でみることができ、がん、脳、心臓などの病気の診断に有効です。
※5「一隅を照らす」: 天台宗僧侶の修行規則である『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の冒頭にあります。この部分の『山家学生式』は、『天台法華宗年分学生式』(六条式)といい、最澄が、比叡山で独自に僧を養成するため、制度の許可を願い嵯峨天皇に提出されたものです。現代でも、天台宗一隅を照らす運動として受け継がれています。
※6 渡辺和子: 1927-2016年。修道者。9歳の時、二・二六事件で父・渡辺錠太郎を目の前で暗殺される。
聖心女子大学、上智大学大学院卒業後、ノートルダム修道女会に入り、アメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学院で博士号を取得。その後、36歳の若さでノートルダム清心女子大学学長に就任し、のちに同学園理事長、日本カトリック学校連合会理事長。『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012年)は230万部を超えるベストセラー。『面倒だから、しよう』(幻冬舎)、『目に見えないけれど大切なもの』(PHP研究所)、『幸せはあなたの心が決める』(PHP研究所)、『どんな時でも人は笑顔になれる』(PHP研究所)、翻訳では『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』(PHP研究所)があり、数々の名著を世に贈りだした。学生に是非読んでもらいたい著書の数々である。「世の中に雑用はない」は、著書『面倒だから、しよう』にくだりがある。
[プロフィール]
伊藤 伸一(いとう しんいち)
社会医療法人大雄会 理事長
一般社団法人愛知県病院協会 会長
1956年8月 愛知県一宮市生まれ
1983年3月 愛知医科大学 卒業
1984年4月 奈良県立医科大学 大学院 入学
1987年1月 医療法人大雄会 入職
1988年3月 奈良県立医科大学 大学院 修了
1990年5月 医療法人大雄会 副理事長
1991年10月 医療法人大雄会 理事長代行
1993年4月 医療法人大雄会 理事長
1994年11月 医療法人大雄会 老人保健施設アウン施設長
1996年1月 医療法人大雄会 大雄会第一病院院長
1999年4月 医療法人大雄会 大雄会一宮看護専門学校学校長
2003年12月 学校法人研伸学園 理事長 (現任)
2012年4月 社会医療法人大雄会 理事長 (現任)
2012年9月 社会医療法人大雄会 総合大雄会病院院長
2015年10月 社会医療法人大雄会 大雄会第一病院院長
2018年10月 社会医療法人大雄会 大雄会クリニック院長
●主な関係団体の現職
一般社団法人愛知県日本病院会支部 理事
一般社団法人日本医療法人協会 会長代行
一般社団法人愛知県医療法人協会 理事
愛知県放射線科医会 常任理事
一般社団法人日本社会医療法人協議会 副会長
一般社団法人愛知県病院協会 会長
※プロフィールは、取材日(2023年11月13日)時点の内容を記載しています。