「ただで起きないために、転べ」
~趣味の映画を仕事にして~
脚本家・映画監督 井上淳一(昭和59年卒)
『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』公式サイト http://wakamatsukoji.org/
来る3月15日から全国の映画館で上映される『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を監督された井上淳一さんにお話を伺います。
滝学園時代、どんな生徒でしたか。
恥ずかしながら勉強した記憶がほとんどありません。僕は犬山南部中学校という公立校に通っていたのですが、試験の成績だけは良かった。だけど将来の夢もやりたいこともない。これじゃ記憶力のいいだけの、ただの田舎の優等生じゃないかという醒めた自意識だけはありました。そんなことを思っていた中二から中三になる時に立て続けに三本の映画を観ました。『地獄の黙示録』『もう頬づえはつかない』『影武者』の三本です。内容も製作費も何から何まで違う。でも圧倒的に訴えかけてくるものがある。映画ってすごいと初めて思いました。それでなぜか映画監督になりたいと思っちゃったんです。高校を受験する時も、滝の演劇部は全国大会2位と聞いていて、それが滝に行こうと思った最大の理由です。だから高校に入っても、勉強なんかするわけがない(笑)。希望通り演劇部に入って、もう部活三昧、映画三昧です。それ以外の記憶が本当にない。映画をやるなら東京へ行くしかないと思っていたので、どこか腰掛け気分もあった。ただ、高校三年間で観た映画、読んだ本、出会った友が、その後の僕の礎になっている。それだけは間違いありません。
浪人生時代、どのような生活でしたか。
そんな高校生活を送っていたので、当然浪人しました。河合塾へ行ったのですが、そこでもまた勉強しない。映画館とゲームセンター、マンガ喫茶に入り浸りです。出席するのは、牧野剛さんという現代文と小論文の講師の授業だけ。牧野さんはその年の共通一次試験の現代文の問題を的中させていて、一躍スターになっていた。今では考えられませんが、ビールを飲みながら授業をやることでも有名でした。授業前、生徒がせっせと教壇にビールを置くんです。この頃、大学で学生運動をやっていて、大学に残っていたら間違いなく教授になっていたような人たちがこぞって予備校の講師をやっていた。牧野さんも名古屋大学の全共闘で、授業は最後の10分。ずっとその頃の話をしている。それがまた面白くて。正直言えば、浪人しなかった人生、牧野さんと出会わなかったは考えられない。それくらい影響を受けました。
さらに、夏期講習をサボって行ったシネマスコーレ(※1)という映画館で映画監督の若松孝二さん(※2)と運命的な出会いを果たすわけです。シネマスコーレはその前年に若松さんが名古屋に作ったミニシアターでした。高一の終わりに観た『水のないプール』という若松さんの映画を観て、さらに高二の夏に「俺は手を汚す」という若松さんの自伝を読んで、僕は若松さん率いる若松プロに入ろうと決めていた。そしたら、映画を観に行ったシネマスコーレにオーナーである若松さんがたまたまいたんです。もう緊張で震えながら、「弟子にして下さい」と直訴した。そしてあろうことか、東京に帰る若松さんと一緒に入場券で新幹線に乗ってしまった。もう無謀というほかありません。でもそれくらい映画をやりたかった。そこで若松さんも初めて本気だと思ったらしく、「ウチは給料は払わない。その代わりだいたい四年で監督にしてやってる。だから、今、浪人してるなら、大学入って、そしたら四年間、親の金で暮らせるだろ。その間に監督になればいい」と言われたんです。まあ体よく追い返されただけかもしれませんが(笑)。とにかく一度戻って、大学に入って、若松プロにも入りました。入ったといっても、本当にお金は一円も出ませんでしたが。
大学時代は何を学ばれ、どんな生活でしたか。
勉強してないから志望校はことごとく落ちて、受かったのは早稲田の二文(第二文学部)と日芸(日本大学芸術学部)だけ。若松さんにどっちがいいか訊いたら、「映画はウチで学べるから、早稲田の名前を取れ」と。で、早稲田に行ったのですが、例によって大学で学んだ記憶がほとんどない。東京出てすぐに、若松さんの助監督を一本やったのですが、当時は若松さんも仕事がなくて、今度こそ本格的に映画三昧です。年間400本は軽く観ていた。
牧野さんとも交流が続いていたのですが、その牧野さんから「河合塾が入塾式でスライドで河合塾での一年間を見せる企画があるからやらないか」と言われ、「それなら映画の方がよくないですか」と提案したら、なんと河合塾がOKしたんですよ。それで、若松さんのプロデュースで『燃えろ青春の一年』という30分の短篇映画を監督しました。しかし助監督を一本しかやってないので、何も出来ない。結局、実質的には若松さんがほとんど撮ることになりましたが。ここまでの顛末を描いたのが『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』です。もう言葉では語り尽くせないものが描かれている。監督なったのに、若松さんに監督を奪われて、悲劇なのに笑えるんですよね。笑わせるつもりはなかったのに、喜劇になってしまった(笑)。
社会人になってから、どのような道のりをあゆまれましたか。「社会派」の監督・脚本家といわれますが、どのようなことを重点に作品と向き合われましたか。
結局、大学には6年行って、5年目に今度は『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』という映画を監督するのですが、それも上手くいかなくて、大学卒業する頃に、字なら書けるのではないかと安易に考え、脚本家へ転向することにしました。それで荒井晴彦さんに師事し、1994年に『武闘派仁義 完結篇』で脚本家デビューするのですが、鳴かず飛ばずで。それでもなんとかここまで続けてこられたのは、最初の妻と今の妻の稼ぎがよかったのと(笑)、母親が父親に内緒で時々お小遣いをくれたから。意地も夢も経済に負けるけど、そのお陰で僕は負けなくて済んだ。だから社会人という自覚を持ったことがない。
よく若松さんに「監督になりたいなら、何か見つけないと。腹立ってるものでもいい、誰かを殺したいでもいい」と言われてきたけど、僕には何もなかった。いや、あるつもりだったけど、本当に表現したいものなんて何もなかったんですよ。でも、2001年の9.11の後、アメリカがアフガニスタンを空爆して、それを世の中が圧倒的に支持した。それを見ていて、「ああ、世の中は放っておくと、どんどん悪くなるんだ」と思った。ならば、それに物申す映画を作ろうとその時に初めて思いました。目をこらしてみると、世の中は矛盾に満ちあふれ、虐げられ、命を失っている人たちが大勢いる。どこかで誰かが不幸せということは、それは自分にも責任があり、自分もまた不幸せだということ。もちろん、人はそんなことを考えながら、ずっと生きていけるわけではありません。目先の快楽とは言わないけど、目の前の「楽」に流されがちです。だから、せめて映画を作る時はそのことを忘れないようにしよう、そこから目を逸らすのはやめようと心がけてはいます。でも実際はかなりいい加減ですが。
1/28江南市民文化会館にて、『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』の先行上映会で映画を見させていただきました。井上さんの自伝的青春映画で、登場人物も実名、ロケ場所も江南市が多く、滝学園のグラウンドや本館で撮影されたシーンを見ると、懐かしさを感じてしまいます。
最初は自分の話をやる気なんてこれっぽっちもなかったんです。若松さんがシネマスコーレを作る話と支配人になった木全純治さんが若松さんに翻弄されながらシネマスコーレを育てていく話をやろうと思っていた。なぜかというと、コロナになって、ミニシアターの危機が顕在化した。さらにコロナで映画の配信が加速して、ただでさえ少ないお客さんがさらに減った。だから、これまで幾多の経済的危機を乗り越えてきたシネマスコーレの映画を作ることで、そんなミニシアターを応援できないかと思いました。しかし、それだけでは話が作れず、仕方なく自分を出すことになってしまった。
そうなると、もう恥ずかしいなんて言っていられない。牧野さんはじめ自分が影響された人や過ごした場所を出すしかない。同級生の名前も実名ですし、実家は本当の実家で撮影した。滝のシーンは滝で撮るしかないとダメモトでお願いしたら、快くOKしてもらって。冒頭のグラウンドは滝のグラウンドですし、クライマックスの井浦新さんと東出昌大さんの長いシーンは本館廊下で撮影しました。滝での映画の撮影は『高校三年生』以来60年ぶりらしい。本当に感謝しかありません。
趣味は、何でしょうか。何か今はまっていることはありますか。
趣味は映画です(笑)。趣味を仕事にしてしまった。幸運なのか不運なのかはわかりませんが。ドラゴンズもプロレスも好きだったけど、結局残るのは映画だけなんですよね。あと、ボクシングをずっとやっていますが、これはやめるとすぐに太るという理由で。プロを目指したことは一度もないというか、長くやってるわりに、本当に上手くならない。映画といっしょです。
座右の銘は。
そういうのが本当にないんですよ。なんかカッコイイのがあればいいんですけどね。旗印とかそういうものが嫌いというのもあるのかもしれない。若松さんがよく「映画を武器に世界と闘う」と言っていて、それを真似して言う時はありますが。あと、『青春ジャック』のコピーにもありますが、「ただで起きないために転べ」ですかね。転んでもただで起きないじゃなくて、ただで起きないために転ぶ。まさに転んでばかりの、僕の人生を肯定するような言葉(笑)。
滝学園の在校生、卒業生(二十歳代の若手)に対し、今後の進路を決めていくうえ、さらには、生きてゆくうえでの助言がありましたら。
好きなように生きたらいいんじゃないですか。親とか世間とか関係ない。まあ、その「好きなように」を見つけるのが大変かもしれないけど。人生はたった一回と言うけれど、たった一回だから好きなことをやれじゃなくて、好きだと思ったことが違ったり上手くいかなかったら、やり直せばいいんですよ。何度でもどこからでも。僕たちの頃より生きにくいかもしれないけど、僕たちだって三無主義(無気力・無関心・無責任)やシラケ世代って言われてたんだから。失敗は怖いけど、恐れる必要はない。まさに、ただで起きないために転べ、ですよ。
※1 シネマスコーレ
1983年2月若松孝二監督が立ち上げた名古屋駅西口のミニシアター。
アジア映画、日本映画、インディーズ作品などを中心としたプログラムを上映。
「青春ジャック 止められるか、俺たち2」に登場する木全純治氏はここの支配人。
名古屋市中村区椿町8-12 アートビル1F TEL.052-452-6036
シネマスコーレHP http://www.cinemaskhole.co.jp/
※2 若松孝二
映画監督。1936年宮城県生まれ。農業高校を中退して上京。TVドラマの助監督を経て、1963年にピンク映画「甘い罠」で映画監督デビューする。1965年若松プロダクションを設立。反体制的な主張を込めた作品を数多く発表し、学生運動の高まりとあいまって若者の支持を得る。1976年大島渚監督の「愛のコリーダ」では製作を務めた。その後も、権力や体制に対する怒りを原動力に社会派の作品を生み出し、国内外で評価を高める。2008年「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」でベルリン国際映画祭のNETPAC賞(最優秀アジア賞)と国際芸術映画評論連盟賞を受賞。2010年「キャタピラー」では、主演の寺島しのぶに同映画祭の最優秀女優賞をもたらした。2012年10月12日、東京都内で交通事故に遭い、5日後の17日に逝去。享年76歳だった。中上健次の小説を映画化した2012年「千年の愉楽」が遺作(2013年春公開)となった。
※プロフィールは、取材日(2024年2月19日)時点の内容を記載しています。
[プロフィール]
井上 淳一(いのうえ じゅんいち)
脚本家・映画監督
1965年7月 愛知県犬山市生まれ
1984年4月 河合塾に入塾。浪人生活を送る
1984年8月 シネマスコーレで映画監督の若松孝二氏に出会い、弟子入りを志願
1985年4月 早稲田大学第二文学部に入学と同時に、若松プロダクションに入る
1986年3月 河合塾の短篇映画『燃えろ青春の一年』を監督、全国の河合塾の入塾式で上映される
1990年3月 『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』
「第1話 彼女の本当が知りたくて」で商業映画の監督デビュー
監督としての才能のなさに絶望し、脚本家を志す
1991年3月 早稲田大学第二文学部を卒業
1994年4月 『武闘派仁義 完結篇』で脚本家デビュー
2013年4月 『戦争と一人の女』で監督再デビュー。数多くの海外映画祭に招待される
2024年3月 『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』 が3月15日(金)より全国順次公開
[主な脚本作品]
1994年 TV『静かなるドン』第16話「美女と野獣! 恋の落とし穴」
1998年『くノ一忍法帖 柳生外伝』(小沢仁志と共作)
2005年『男たちの大和』(野上龍雄と共作)
2011年『アジアの純真』
2014年『あいときぼうのまち』
2018年『止められるか、俺たちを』
2023年『REVOLUTION+1』(足立正生と共作)
『福田村事件』(佐伯俊道・荒井晴彦と共作。プロデューサーも兼任)
[主な監督作品]
2014年『いきもののきろく』
2015年『大地を受け継ぐ』
2019年『誰がために憲法はある』
[受賞作品]
2019年12月『誰がために憲法はある』で平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞受賞
2024年1月『福田村事件』で日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞
2024年2月『福田村事件』でプロデューサーとして、エランドール賞奨励賞を受賞
★著書
『国と東電の罪を問う』
著者:井上淳一、蓮池透、堀潤、松竹伸幸
出版社:かもがわブックレット(2015年2月1日発売)
ISBN-13 : 978-4780307504
『映画評論家への逆襲』
著者:荒井晴彦、森達也、白石和彌、井上淳一
出版社:小学館(2021年6月3日発売)
ISBN-13:978-4098253999