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活躍する同窓生に学ぶ:筒井康弘氏(株式会社東海メディカルプロダクツ 代表取締役社長)

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活躍する同窓生に学ぶ:筒井康弘氏(株式会社東海メディカルプロダクツ 代表取締役社長)

「神は乗り越えられる試練しか与えない」
~医療機器の分野で「一人でも多くの生命を救いたい」~

株式会社東海メディカルプロダクツ
代表取締役社長 筒井 康弘(旧姓:定藤、昭和60年卒)

株式会社東海メディカルプロダクツ
https://www.tokaimedpro.co.jp/

2024年6月に公開された大泉洋さん主演の映画『ディア・ファミリー』をご存知ですか? 実はこの作品、株式会社東海メディカルプロダクツの創業者・筒井宣政さんとご家族の実話をもとに作られた映画なのです。IABPバルーンカテーテル(※1)の国産化に初めて成功した会社で現在代表取締役社長をされている筒井康弘さんにお話を伺います。

つい先だって『ディア・ファミリー』の原作本『アトムの心臓「ディア・ファミリー」23年間の記録』(※2)を借りようと某図書館に行ったところ、何と20人以上待ちでいつ借りられかわからないと。世の中の皆さんがこの話に凄く関心を持たれているんですね。東海メディカルプロダクツはどんな会社か、お話いただけますか。
 「ディア・ファミリー」は全国で120万の人が観てくれました。この映画で大泉洋さんが演じた主人公が私の義父・筒井宣政であり、先天性の重い心臓疾患を患った娘を助けたいという一心から、人工心臓を作ろうと立ち上げた会社が東海メディカルプロダクツです。義父の次女に心臓疾患がみつかり、全国の心臓外科の名医を訪ねまわったが、「現在の医学では手術は不可能」という結論に。海外の名医に尋ねてみたが、同じ答えだった。それなら娘の命を救うための人工心臓を自分が開発しようと考えたのです。東海高分子化学というビニール・樹脂加工会社の二代目だった義父は、文系で医療の知識が全くなく、無謀な挑戦といえますが、娘を助けたいという強い思いだけで突き進んだのです。人生すべてをかけて、懸命に奔走する姿は、映画でも伝えられましたが、多くの人に感動を与えました。
 国や研究機関から研究助成金を受け、大学との産学協同で8年後人工心臓の試作品は完成させたのですが、そこから実用化には1000億を超える費用がかかることが分かり、心臓病治療に欠かせないバルーンカテーテルに舵を切り替えました。当時、バルーンカテーテルの国産品はなく、アメリカのものを輸入して使用していたのですが、日本人にはサイズがあわなく、合併症などの問題がおきていたのです。人工心臓で培った技術もあって、2年後に国産初のバルーンカテーテルの開発に成功し、1989年、発売開始にこぎつけました。義父が娘に報告すると、「これで多くの人の命を救うことができるね」と喜んだということです。その2年後、次女は亡くなりますが、娘のためから始まったものが、現在の企業理念でもある「一人でも多くの生命を救いたい」に繋がっていったのです。

筒井社長は、東海テレビ放送勤務時代に筒井宣政さんの長女・奈美さん(現在の奥様)と出会われる訳ですが、どんなきっかけで東海メディカルプロダクツに行こうと決意されたのでしょうか? 27歳くらいでとても勇気のいることだと思いますが。
 大学を出て入社した東海テレビで前社長の長女と出会いました。彼女とは同期入社で、数年後結婚をしました。結婚後、少し経って義父から、「うちの会社、手伝ってくれないか」と。義父は、会社をファミリービジネスとしてやっていきたいと考えていました。その理由は、小児医療の分野に踏み込むなどといった、経営的には不安要素がある方針は、ファミリービジネスの会社でしか出せないと考えていたからです。私は、どちらかというとポジティブ思考の人間といいますか、あまり物事を深く考えない人間なので、「中小企業に入って将来倒産しないか」「医療の知識など私にはまったくないのに大丈夫か」などとは、ちょっとは考えましたが、勢いで家族として跡を継げるのは自分しかいないと、東海メディカルプロダクツに入ることを了解しました。姓をかえる養子縁組にも、なにも異論はありませんでした。
 入ってはみたが、医療業界についてまったくわかっていなくて、考えたのが、当時、バルーンカテーテルしか作っていなかったのを、何かほかに作るものがあるのではと。作る技術はあるのだから、ほかにできるものはないかと、医療商社を片っ端から回りました。そこで、業界での要望、市場の動き、言い換えれば、マーケティングを徹底的にしました。アメリカの企業は、マーケットを把握した商売をしていました。それをまねようとしましたが、そこで分かったことは、日米では、医療に対する考え方、それをビジネスとしたときの考え方の違いです。日本がそれをまねしても生きてはいけないということでした。
 アメリカというのは、コモディティー商品化してしまうと、改良開発をしなくなってしまう。一方、日本は改良改善をしていく。アメリカの大手企業は、シリコンバレーやイスラエルなどの医療ベンチャー企業が先進的医療のデバイスを完成させたというと、その企業を買収して、それを世界中で売るというスタイルが主流です。新しい医療デバイスにだけ目を向け、従来ある医療技術の改良化には目を向けなくなります。そうではなく、弊社は今あるものを、よりよいものにしていき、医者の要望を聞きながら、バルーンカテーテルについても、小児用のものを作っていくなど、医療の現場からの声に耳を傾け、より優れたものに改良していき、さらに多くの人たちの命を救っていきたいと思います。日本の医者が患者にかける手術時間、労力もアメリカの比べて長く、日本はより細やかな治療をします。それにあった、製品を開発、改良していく。そこに当社の活路があるのではなかと考えています。
 ある時、滝の先輩であり、現在愛知医大の脳血管内治療センター特命教授でJSNET(⽇本脳神経⾎管内治療学会)の理事長をされていた、宮地茂先生から、アメリカから出荷が止められたデバイスを作ってくれと言われ、作った経緯があります。脳梗塞治療、脳血管治療に必要なデバイスを、コロナの関係で、アメリカが輸出を止めたことがあった。その宮地教授の要望に応えるべく、必死な思いで、作り上げました。日本でも作ることができる、日本独自でも作らなければいけないということを強く思いました。現場の声を吸い上げ、現場が今求めていることに注視して、アメリカ企業ができない、細やかな製品を作っていくことこそ、日本企業の使命だと感じております。日本は少子高齢化が進んでおり、政府の財政における、医療費が問題視されており、薬価改定においては医療デバイスの価格は下がる傾向にあり、その対策としてフィリピン工場での生産も進めています。
 今後の事業方針ですが、当社は中小企業ですので、事業領域を絞る必要があります。引き続き血管内治療にフォーカスした製品のラインナップを拡大していきたいと考えています。脳梗塞、脳動脈瘤破裂、心筋梗塞、肝臓がんなど、血管を通して治療することで、身体的にも経済的にも患者さんの負担を減らしていきたいと思います。慢性硬膜下血種といって、頭を打撲した際できる血腫の治療は、従来は開頭して血を抜いていたものを、カテーテルを血管に通して血腫のところまでいき、接着剤のようなもので止血する手技も普及し始めました。また動脈瘤の治療でも開頭し、こぶのところをクリップで止めて、破裂しないようするものだったのが、カテーテルをこぶのところに持っていき、コイルという小さいチップをこぶの中に詰めていくと、コイルが血液と触れ石灰化して、瘤が破裂しないようにするといった血管内治療にも広く普及しております。開頭をしないというだけでも、患者の負担は大きく軽減されるのです。こういった治療の精度を上げるため、もっともっとカテーテルを改善していくことが弊社の今やるべき仕事だと思っています。

東海メディカルプロダクツが提供する製品群

滝学園時代、どんな生徒でしたか。部活は何をされていましたか・・・。
強く印象に残る先生や出来事はありますか。

 滝には中学から入りました。高校は理系で、4つ上の兄と同じ道を歩んだということです。ただ違うことが頭のできでした。兄はすごく優秀で、定藤(さだとう)という名前が変わっていることもあり、兄に比べ弟はなんだ、としょっちゅう怒られて、頭を小突かれていました。勉強はからっきしダメでしたが、運動は自慢できるものでした。小学生時代、春日井リトルリーグにはいっていたこともあって、滝中では野球部に入部。足も速く、主軸を打っていましたが、冬に相撲をして遊んでいた際、肩を脱臼してしまい、野球部を離脱。高校に入ってからテニスならいいだろうとテニス部に入ったが、サーブを打った途端肩を脱臼、それ以来帰宅部になりました。ただ、足のほうは健在で、運動会などではクラス代表に選ばれたりもしました。野球部での一番の思い出があります。滝学園で唯一プロ野球選手になった吉田修司が、当時、宮田中学のエースで、練習試合で対戦した際、その吉田からヒットを打ったことです。当時から球は無茶苦茶速く、すごいピッチャーでした。のちにプロの投手になるという逸材からヒットが打てた、これが一番の思い出であり、大いなる自慢です。その時、吉田は監督から、「なんであんな奴に打たれるんだ」とこっぴどく怒られていたのも覚えています。
 先生でいうと、社会科の光岡敏雄先生が非常に厳しい先生だったことが忘れられません。

大学時代はどんな学生生活を送られたのですか。
東海テレビ放送を目指されたのは、何時頃でしょうか。

 大学は芝浦工業大学で通信工学を勉強しました。勉強は最低限のことをし、バイトに明け暮れた大学生活でした。当時、東京ドームができた時代で、そこで開かれるコンサートやイベントなどの設営のバイトをしていました。学生にとっては、短期で結構実入りがいいバイトで、マイクタイソンやミックジャガーなどのイベントの設営にも関わっていました。バブル全盛から終わるころということもあって、六本木のバーというかスナックでバイト店長もしていました。お客さんにテレビ局関係、広告会社などマスコミが多くて、結構景気のいい話を聞いていて、就職先候補にテレビ局が大きく浮上しました。通信工学を勉強している学生はほとんどがメーカー志望なのですが、私にはメーカーではとても務まらないと、一級無線技術士の資格を取り、テレビ局を技術職として受けました。フジテレビは見事に落ちたのですが、東海テレビは受かり、入社しました。でもすぐに、技術的技量の低さを見抜かれ、営業職にまわされました。営業に入ってみて、実は営業職が自分には向いているんじゃないかということに気づきました。そんな時に筒井前社長の長女と知り合い、結婚をするわけです。

趣味は、何でしょうか。何か今はまっていることはありますか。
 趣味はジムとゴルフです。昔、大相撲の千代の富士が脱臼ぐせを直すため、筋トレをしたということを知って、それを真に受けてジム通いを始めました。今でも続いて、週1、2回通っていますが、ベンチプレス、スクワットなど結構、体に負荷をかけるのですが、終わった後は心身ともにリフレッシュします。筋肉を鍛えるために始めたジムが良いストレス発散になっています。
 ゴルフも好きです。大学4年、川崎の新丸子という多摩川に近いところに住んでいたころ、突然、父親からゴルフバッグが送られてきました。サラリーマンになるのだから、ゴルフはやったほうがいいと。そこから、多摩川河川敷のゴルフ練習場で黙々とクラブを振っていました。野球をやっていたので、結構すぐにうまくいき、はまっていきました。就職してからも、ゴルフは営業にはすごく有効でした。その練習場でよく見かけたのが、巨人の長嶋茂雄選手、ミスタージャイアンツでした。よく考えたら、田園調布が近かった。ひとりだけ、ほかの人にはないすごいオーラがありました。妻も大学時代ゴルフ部だったので、妻と一緒にゴルフをすることも。
 あと、妻との旅行ですか。フジドリームエアラインを利用して国内で行けるところに行き、現地でレンタカーを借りて、楽しんでいます。行先は私が考えるのですが、人があまり行っていないところをあえて選んでいます。あまり知られていない神社仏閣、史跡、自然景勝地を探していくのはおもしろいですよ。そこでいろんな出会いもありますし、予想を超えた美しいものに出会えたりするのが楽しいです。もちろんその逆も多く、がっかりということもしばしば。でもそれはそれで楽しいのです。

座右の銘は。
 座右の銘というものではないのですが、困難にぶち当たったとき、これは運命なんだと思うことです。運命だと思うことで、きっちりとその困難に向き合えるのです。家は仏教ですので、仏教的にいうと「因縁」かな。筒井さん姉妹とお付き合いするようになって名古屋中央教会に通っていたからか、キリスト教的にいうと、新約聖書のコリントの信徒への手紙に由来する、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉かな。運命だからしょうがないと受け入れることもあるだろうし、運命だからしっかり頑張らなければいけないとも。要は、運命に真摯に向き合っていくという姿勢、意識が大事なのです。結婚も運命、仕事も運命、こう進んだことも自分の運命なのだから、それに真摯に向き合う。私の中で常に持っているモットーです。

滝学園の在校生、卒業生(二十歳代の若手)に対し、今後の進路を決めていくうえで、さらには、生きていくうえでの助言がありましたら。
 この前のパリ五輪を見ていてわかりますが、今の若い方の中には、世界に伍して戦っている人が多いと思っています。彼らを見ていると、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと。大きな夢を見ない、挑戦しない、自分のできることの範囲で幸せになるんだと、今の若者はみられがちです。こじんまりして冒険しないと言われていますが、そんな人たちばかりでないとつくづく感じました。
 皆さんも、どんどん世界に出て、挑戦をしてほしい。夢を持ってほしい。その夢を“運命”として、真摯に向き合っていってほしい。学生時代、いまが楽しければいいと、何も挑戦してこなかった私です。それが運命の人と出会い、そしてもう一つの大きな運命である「より多くの人の命を救う」に向き合うこととなりました。それが、私が持てていなかった「夢」となりました。この夢に最終到達点はありません。夢を膨らませながら、いつまでも続けていけるよう、この“運命”に向き合っていきます。

※1 IABPバルーンカテーテル
大動脈内バルーンパンピング(intra-aortic balloon pumping;IABP)は、バルーンのついたカテーテルを胸部下行大動脈内に留置し、心臓の拍動に合わせて、バルーンの収縮(デフレーション)と拡張(インフレーション)を繰り返すことで心臓を補助する圧補助循環装置です。

※2『アトムの心臓「ディア・ファミリー」23年間の記録』(文春文庫)
著者:清武英利 出版社:文藝春秋(2024年4月刊)
ISBN-13978-4167922009 、& kindle版

東海メディカルプロダクツにて:大西同窓会長と筒井康弘代表取締役社長

[プロフィール]
筒井 康弘(つつい やすひろ)旧姓:定藤
株式会社東海メディカルプロダクツ 代表取締役社長

1966年4月 愛知県丹羽郡扶桑町生まれ
1990年3月 芝浦工業大学 工学部 情報・通信工学課程卒業
1990年4月 東海テレビ放送株式会社入社
1998年4月 株式会社東海メディカルプロダクツ入社
2013年1月 同社 代表取締役社長(現任)

※プロフィールは、取材日(2024年10月9日)時点の内容を記載しています。